三月も終りが近い、よく晴れた日。
二年前にも見た風景をベランダから眺めれば、肌に当たる風が心地好い。
「それじゃあ高橋さん、荷物これで全部ですので」
感じの良い引越し業者の方々へ、労いにおにぎりと缶コーヒーを渡し、精算を済ませる。
「そんじゃ、私らはこれで」
業者さんを見送り、部屋へ戻る。
がらんとした空間を見回せば、あちこちに出来たシミやキズが二年の月日を思わせる。
今日わたしは、二年間住んだこの部屋を離れる。
正直なところ、私大に入り独り暮らしまでさせてもらって、大学がそういうシステムだからといってキャンパスが変わるから引越しだなんて、贅沢もいいところだと思う。
進級は出来たものの、住む場所を大金をかけて換えるほどの価値がわたしにはあるのだろうか。
そこまで考えられるくせに、それ以上踏み込まないのはわたしがまだまだ甘くてこどもだからだ。
不安がいっきに押し寄せた。
最後の手荷物を持って、わたしは部屋をあとにした。
感謝しきれないほどお世話になった管理人さんに挨拶し、大荷物を抱えバス停に立つ。
程なくしてY駅行きのバスが到着した。
乗り込むと車内はがらんとしていて、わたしの他に乗客はいなかった。
「お客さんが今日初めてだよ」
もしかしなくとも、わたしに話しかけているのだろうか。
「春休みだから学生さん、全然乗らないのねぇ」
バスの運転手には走行中に話しかけてはいけないはずだ。ましてや向こうから話しかけてくるなんて。
いいのかな、と思いつつも返答する。
「実家、栗原の方なの?昔はおれも佐沼辺りでタクシーの運転手やっててね」
わたしがこれから実家へ帰省することを口にすると、田舎を懐かしむように運転手さんは語り出した。
「田舎はいいね、こっちと比べると仕事は少ないけど……」
ふと窓の外に目をやれば、見慣れた風景。
四車線道路を絶えず車が行き来し、整備された歩道には、ある人は自転車に乗り、ある人は買い物袋を提げて、老若男女の人々が行き交う姿。
駅に着いたあと、電車とバスをいくつか乗り継ぎ地元へ向かう。
暫しこの近代的な街並みともさよならだ。
当たり前として見てきたこの風景は、数時間後には静まり返った田舎の景色に変わる。
それは、まるで何もないかのように、がらんとして冷たく見えるけれど、そこかしこに人の温もりみたいなものがぼんやり灯っているように見えるあの感覚をわたしは知っている。
「おれたちってねぇ、運転しながらお客さんと話しちゃだめでしょう。今だと学生さんも少ないし、しーんとしちゃってねぇ……」
この人もまた、それを知っている一人なんじゃないか。だから。
「正直ねぇ、ストレス溜るんだよねぇ……」
運転手さんは、苦笑まじりにそう言った。
バスは国道をひた走り、わたしと運転手さんは他愛ない会話を続けた。
「次のバス停で誰か乗ったら、おれはもう喋られないから」
と、少し寂しそうに笑って、停まったバス停でひとり、またひとりと客が乗り込むと、まるで夢でも覚めたかのように運転手さんはぱったりと黙り込み、車内にはいつものようなしんとした空気が戻った。
その次のバス停でも普段と変わりなくサラリーマン風の男性がひとり乗り、わたしの前の席にどっかりと腰を下ろし、世話しなく左腕の時計を気にしては窓の外を眺めていた。
この男性も、
左斜め前の女性も、
後部座席の兄弟も、
先程乗ってきたばかりのお祖父さんも、
誰もわたしと運転手さんの間に流れた時間を知らない。
その事実がどうしてか、わたしの心を春の日差しのように暖かくしてやまなかった。
「はい、お疲れ様でした。終点、Y駅前到着です。お忘れ物のないよう……」
大荷物をまとめ直すわたしの横を、次々と乗客が通り過ぎていく。
わたしが最後のひとりになり、あらかじめポケットに用意しておいた運賃と整理券を握り締め、降り口に向かう。
――ひとこと声をかけて降りよう。
そう思ってお金を入れようとしたその時。
「いいから」
運転手さんは運賃入れの口を左手で塞いだ。
「気持ちだから。地元いっしょって聞いて嬉しかったんだから」
まさかそんな事を言われるなんて予想もしなかったわたしは、行き場を失った右手にお金を握り締めたままうろたえていた。
「ほら誰も見てないから、ね」
受け取っていい好意なのかわからずに固まってしまっていたわたしに、運転手さんは言った。
「きっといいことあるよ」
帽子の下から覗く、少し色黒の顔に笑みを乗せて。
ありがとうございます、と告げバスを背に改札へ向かって歩き出す。
自然と足取りも軽くなる。
右ポケットを探れば170円と整理券。
財布を取りだし、ピンクで「1」と印刷されたそれをお札とカード類の間に挟んだ。
見上げれば雲ひとつないよく晴れた空。
春の訪れを感じながら、晴れやかな心持で地下鉄に乗り込んだ。