僕らは
何だかこの季節になると無性に聴きたくなるghostnote。そしてthe court。どのぐらい聴いたんだろうってくらいリピートした。今聴いても全部が出会った頃の輝きを失わない。音楽に勇気をもらうなんて女々しいこと下らないって思ってた。でも、なんだろうなぁ、そういうことじゃないんだよなぁって思う。
闘うことをやめるのと、理解してもらうのを諦めるのは、何が違うんだろう。私はどっちだろう。どっちもかな。自分の考えをわかってもらおうと努力したい。そういう人間でありたい。伝えるっていうのは、相手にわかってもらえなきゃ意味がない。言い放ってそれで終わりじゃ、だめなのに。今の若い人たちは自分も含めて、それでいいと思ってる。争いたくないのはいつの時代だって誰だって同じなのに。自分は自分を持ってて、だから他人がどうだろうと知ったこっちゃない、合わないなら付き合わない、愛想振りまくくらいなら無愛想に思われてもいい、それが美学になってる。ただでさえ“真面目”や“思いやり”が鼻で笑われる時代。ああ、このままで自分は終わりたくない。言いたいことを言うのが正しいんじゃない。人を傷つけて自分が無傷でなんていられないのに。それに気付いているフリで毎日を生きて。吐き気がする。どの時代にいても揺るがない人間になりたい。そう思い続けたい。投げ捨てたくない、諦めたくない。
素晴らしき世界
を聴くとさ、こんなこと考えたくないのに、涙を流しながら考えてしまう。馬鹿みたいに。真っ直ぐすぎて、まぶしすぎて、自分がとても薄汚い人間に思えて。自分を卑下してよがってるんじゃなくて。日の光の下で生きることはこんなに辛いことなんだって。日陰にいることはどれだけ楽なことなんだって。でも人間っていつまでも底にいられなくて、いい方向にいきたいと願ってしまう。頑張っても届かないこともある。自分を強く持つことはこんなにも難しい。生きることなんて全然難しくない。自分を保つことが何より難しい。
仙台向かってます。荒吐の日記さっぱり進みません。